川越の人になる 〔45年を振り返りつつ〕

 

前主任牧師 山岡磐

 教会の事務書類を管理するスチール棚の中に、初雁教会就任以来の書類が山のように揃えられている。 1963年(昭和38年)から、現在まで、実に45年間の書類の蓄積されたものである。教会総会資料から、役員会記録、諸会計簿、週報、月報、その他。これらの蓄積されている書類によって、初雁教会と、山岡牧師、幸子牧師の45年間の歩みが、誰が見ても、あるいは読んでも明らかに知ることが出来るであろう。その意味では、初雁教会の宝の部屋(お蔵)であり、実に詳細に読み明かす事が出来る大切な歴史資料の宝庫なのである。

 あの年、すなわち、わたしたちが初雁教会へ転任した年である。特別に気候変動の激しい寒い年であったように記憶している。長女民子の1歳の誕生日を迎える直前であった。聖書学校を卒業して2年、初陣は東京天門教会であった。再臨信仰に燃える神山良雄牧師の下で、緊張した再臨信仰を学ばせていただいた。今でも思い出すが、先生は外出される時には必ず、紫の襷(たすき)を肩にかけていた。その襷には、「マラナタ・アーメン主イエスよ、来たりませ」と鮮やかに染め抜いていた。生き生きした再臨信仰が教会には満ち満ちていた。2年10ヶ月の再臨信仰の教育は、やがて、聖書におけるキリスト教の終末論へとわたしの目を開かせていただいた。忘れがたい天門教会での思い出である。



 

 今は懐かしき旧会堂(1932年)

  初雁教会は、日本家屋の二階建ての屋敷であった。恐らく新築された時は、豪奢な日本家屋であったろうと、その面影が残っていた。階下の二間が礼拝堂,二階二部屋が牧師館であった。建築数十年の家屋は、容赦ない北風の歓迎を受けた。雨戸もないガラス戸は、日夜、隙間風が吹きぬけ、ガタピシと鳴る風の音に、親子三人寒さに震える日々であった。 わたしの初仕事は、風を防ぐために厚めのカーテン生地を買い、なれないミシンを踏んでカーテンを製作することであった。新築の天門教会の生活を考えると、赤子の民子には厳しい寒さの歓迎であったと思われる。そういえば暖房は何を使っていたのだろうか?。今考えても思い出せない。親子三人震える夜を過ごした事だけは、妙に鮮明に記憶に残っている。神山牧師の下で、暖かく祈りをもって育てられたわたしたち。民子の誕生日には、必ず神山先生御夫妻が訪ねてくださった。子供のように愛され、また、ある時には厳しく伝道者のあり方を身をもって教育された先生ご夫妻を懐かしく思い出す。

 今、わたしの手許に古ぼけた「週報綴り」と1966年の「教会総会報告書」がある。久しぶりに開いてみた。懐かしさがこみ上げてくる。この印刷は、いわゆるガリ版刷りで、前任の清水牧師(現在は京都復興教会)から託された、教会献身者の石井康雄兄の手になるもので、わら半紙B5版に印刷されたものである。半世紀のインクの匂いが染み出てくる。

 最初の主日礼拝は1963年1月27日と印刷されている。説教題は「共に悩み、共に喜ぶ」もちろん、聖書はコリント第1の手紙12章12節以下である。 転任に際して、わたしが心した最初の第一声、「教会形成の基本」が、この言葉から推察していただけると思う。そして、今日に至るまでこの基本的教会を形作ると言う事にこだわってきた。 半世紀も過ぎた今年の教会主題も「宣教と教会形成」が掲げられている。ともすればマンネリ化してしまうのではなかろうかと、案じつつも,これは教会の永遠の課題であり、「キリストの体」と聖書が語る言葉の実質的な課題であり、また未完の課題でもある。だから、聖書に聞きつつ、聖霊の促しを受けながら今年も変わりなく追い続けていくことにしている。

 とは言っても、この間、礼拝出席者数は「教会の質と、量」が明らかに示すように、着実に伸びてきたことは、少しずつ教会の肢体としての意識が、教会員に芽生えつつあるのだと思っている。救われる者が日増しに与えられ、教会形成の実は、具体的な教会組織の誕生と共に、教職におんぶに抱っこから、自分の足で立つ教会へと自立、成長している事は感謝すべきことであろう。

 川越の在に伊佐沼がある。その一角から農家の婦人が導かれた。いわゆる山田一族とでも言うのか、親戚関係ではないが、山田いな姉(秋葉原にあった山田電気の社長の母親であった)に導かれて、野良仕事が終ると、夜の集会へ数人が連れ立って、連れ添うように集まった。当時の信徒たちの話では、農家に嫁いで嫁としての仕事をすべて果たして夜道を急いだと言うから、時に集会は,8時、9時から始まることもあったと聞く。同じように、川越の在、菅間に初雁教会の初穂と言うべき一人の姉妹がいた。病弱の柴田以津老姉は、小原十三司牧師に導かれて救われた。和裁を教えながら、若いお弟子さんを教会へ導かれた。

 さて、わたしの初仕事は、山田いな老姉に依頼され、教会葬儀をするための諸葬儀用具(黒白の幕、棺を覆う黒布、その他)を、速やかに用意して欲しいとの願いがあり、浅草橋の問屋街を探し歩いた。恐らく山田いな老姉の思い、祈りは、自らの葬儀を予感しつつ、山田家代々は仏門の総代を務めているけれども、葬儀はキリスト教で行って欲しい!との切なる願い、祈りがあったからであろう。
 わたしは即座に承知し、教会で行う葬具一式を整えた。このことは、田舎の(あるいは地方の)伝道、牧会においては大切な用件であると赴任当初から感じていた。当初の教会員の大半は、城下町の体質と、郊外の農村地域の信徒たちが多かった。それぞれの家は、大半が仏教の家庭である。だから、生前キリスト教信仰に生きながら葬儀は仏式で行うのが当たり前であった。この願いを直ちに役員会は察知して役員会の議題となった。

 ■ 納骨堂建設 
 この頃の教会役員会のもう一つの問題は、教会に「墓」がないことである。だから、葬儀も、追善供養も仏式である。この課題を牧会的に処するために、わたしは、教会の〔墓〕あるいは「納骨堂」の必要は必須なことと感じていた。(今日でこそ、川越地域には、無数の豪華な「公園墓地」がある。いづれも宗教の有無を問う事はしない。整備された公園にピクニックがてら墓参りに行く人も多い。)教会役員会に申し出て、「教会納骨堂建設」が行われた。役員会もこの点は、うすうす感じていたことであった。埼玉県知事の認可、川越保健所への書類提出、近隣家庭への「同意書」などを必要とした。     

 かくして、就任2年目に現在の納骨堂が完成した.境内地にあるので、地下式納骨堂として、納骨数は、思い切って120区画とした。まず、半世紀は充分間に合うものと計画した。1965年のことである。墓石には、小原十三司牧師の筆になる「わたしたちの国籍は天にある」が刻まれた。 

 そう言えば、葬儀一式を依頼し、必要経費一切を献金し葬儀に備えた山田いな老姉ではあったが、召天されたのは、数年後で、前夜式が豪農であった自宅において、自ら準備した一式を用いて行われた。その間数名の召天者の葬儀が、この葬具を用いて行われたことは、人間の生き死には一切、神様の手の中にあると、感慨深く感ずるものである。 

 ■ 礼拝堂建設の願い 
 1966年には、礼拝出席者も二八名平均になり、会堂の手狭から、会堂建築の願いが誰言うとなく自然発生的に起こってきた。中心的存在であったのは、室山二作役員、小柳清一役員らであった。室山役員は慎重派、小柳役員は直ぐやる活動家であった。この二人の役員の個性の違いがありながら、教会の両輪のように、信仰によって堅く結ばれたコンビネーションは、今でも見事だとおもう。もう少し言えば、室山役員は理論派、小柳役員は行動派であった。しかも、教会弾圧解散の嵐をも乗り越えてきただけに、教会信仰においては、あとへは引かない頑固さがあった。この頑固さに、時にわたしも業を煮やして役員会で激しく意見が相克したこともあった。しかし、若輩のわたしが、今日まで一つの教会に45年もの間奉仕できたのも、振り返れば、これらの教会を{わが事のように}大事に守ってきた先輩信徒に祈られ、支えられたからでもあると思う。

 少し当時の役員会のことに筆がそれたが再び礼拝堂建築のことを記そう。翌年、教会総会は50名礼拝出席を目標に掲げると共に、まず牧師館新築を決議した。この点について、やはり教会形成に関わる事として、一言触れておきたい。先に書いたように、当時の礼拝出席は約30名くらいであった。礼拝堂建設に際しての基本的目標は、まず50名の礼拝という「伝道」を目指しての建築である事を確認した事である。   
 「初めに建物ありき」ではなく、地域伝道を目標に掲げての礼拝堂建築の祈りがそこにあった。

■ はじめに牧師館完成
 牧師館建築工事は九月に着工され、教会員でもある石田工務店に依頼し速やかな完成を見た。新しい牧師館になじめない長男の創は、朝起きると、いつも古い日本家屋に行き、遊んでいた。          
 牧師館が新築されると共に、日本家屋の礼拝堂が一層古ぼけて見えてきた。台所は土間でもあり,奥の六畳間の畳は、湿気を含んで踏み込みそうでもあった。だから、自然に礼拝堂建築へと心が向けられ祈りが集中し、同時に献金がささげられていった。     
 仮に礼拝堂建築を決断しても、何処で礼拝をするのか?古い日本家屋を壊して、一次的にもせよ、新しく礼拝する場所を見つけることは、簡単ではない。そこで、現在の人数なら牧師館の2間を広げ礼拝をしようということになった。

■ 仮礼拝堂
 ようやく古い家屋から新しくなった牧師館は、こうして日曜日のたびごとに荷物を片付け、仮礼拝堂になった。 
 6畳と四畳半の仕切り戸は、大きな2枚の仕切り戸になっていたから、これを外して、さらに牧師館の日常生活のすべてを片付ける事は、なかなかの力仕事であった。しかし、新しい礼拝堂が建てられる喜びは、それらの面倒な週日ごとの部屋の模様替えもまったく気にならなかった。
 礼拝ごとに取り外し、満員電車並の礼拝を、続けた事も、今は懐かしく思い出す。 最前列目前に座った者たちは、その頃、30歳そこそこの客気に満ちた若い説教者であったわたしの息(プニューマ、霊でもある)を否応なく被ったであろう。息と言えば、体裁は良いが、とにかく座卓と会衆の間は50㎝もないくらいであったから。もちろん、わたしも後ろの唐紙に背中をつける様に、細くなって座って説教の御用をした。あの頃は、多分体重50数キロで痩せ型であったから、かろうじて座卓を前にして1時間近い説教にも耐え得たのでもあろうか。今では到底考えられない綱渡りのような礼拝であった。しかし、教会が聖霊に満たされ、前に向かって迫力を持って前進している時には、教会員も牧師も、そんな事は気にもならない迫力があった。

■ 新会堂建築の決議
 この状態を見ながら、教会役員会は直ちに動いた。時を失することなく、翌年1月には牧師館完成に引き続き、時の間をおかずに、新会堂建設を決議すると共に、1968年2月11日には、臨時教会総会を開催し、「新会堂建築」を決議した。まさに電光石火の信仰の決断であった。   
 もちろん、この電光石火の早業を憂える者たちもいた。無理もないことである。 会堂建築には多額な予算を必要とする。さて、どうするか。これは1人1人経済生活、また献金にも関わる事でもある。    
 当時、教会会計の総額が58万円、牧師の謝儀が、2万3千円であった。   
 礼拝堂建築に要する諸費用は、試算で約五百万円を超えていた。到底、人間的計算いや、常識的に考えても無理があった。ことに、牧師館新築支払いを終えて、ホッとした直後の事である。         
 しかも、牧師館建築代金を支払い、会堂建築会計残金は、29万1千円に過ぎなかった。まさに暴挙に近い非常識な決断であったといえよう。

 

■ 神に祈りつつ建築へ
 教会役員会は、これら実情を受け留めつつ、教会債・教団援助金(50万円)・ECLOF借入金100万円、そして何よりも新しい礼拝堂を建築するために、教会員の献金をもとめた。           
 「人には出来ないが、神にはできないことはない」と固く信じて、船は荒波に乗り出した。どれほど、信じて真剣な祈りがささげられたことであろうか。

■ 1期2期工事の完成 
 第1期工事支払いは、150万円、   
 第2期工事支払いは、375万円  
 その他諸経費を考えると、よくぞ支払いをまっとうした事であろうかと、今考えても涙するほどの感動に胸が震える。 
 余談であるが、ECLOF(スイスの財団)から百万円を借り入れた時、なぜか支払いは、銀行を通さずに、直接現金で支払われた。東京三菱銀行日本橋支店へ、わたしは一人で受け取りに行った。       
  持ったこともない大金である。教会役員はくれぐれも注意するように!と言ってくれたが、誰も一緒に護衛する者はいなかった。抱きかかえる様に百万円の札束を胸に抱きしめ帰ってきたことを懐かしく思い出す。  
 1968年6月、感謝のうちに第1期工事に続いて、第2期工事は完成!した。

■ 献堂式
 6月16日、感謝のうちに献堂式が行われた。詩篇126編の御言葉の通り、「わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが,舌に喜びの歌がみちるであろう。そのときには、国々も言うであろう。『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と。」 牧師館新築の時の御言葉が、新会堂献堂式においても読み上げられた。まさしく、その通りの感動が教会を包み聖霊の恵みが会衆一堂に溢れたのだ。

■ 付け加えること          
 礼拝堂建築について、一言付け加えておくことが後の時代の者たちに必要だと思われるので、建築当時の設計について蛇足ながら申し上げておくことが必要と思う。当初の設計の段階で、やがて、二階の建て増しを必要とすることを考えて、三間半の垂木は鉄骨を使った。階下の礼拝堂、さらに二階の礼拝堂をも必要とする時が来る事を夢に描きながらである。だから、何十人が二階礼拝堂に集まっても、床が抜ける事はない設計になっている。

四十五年を振り返りつつ 
 前回の最後に、礼拝堂の増築を当初から考えて、階下の梁を鉄骨にしたことを記した。これは、あくまで将来への教勢の進展を考えてのことであって、明日をすでに見つめていたからであった。会堂建築は、あくまで見える建物であって、その目的は「伝道する場」を備える事である。だから、会堂建築完成と共に、伝道する教会の体制を整える事にまず手をつけることから始めた。
 その年の四月、定期教会総会において、教会の組織の検討がなされた。組織は時に教会において必要ではあるが、ともすれば組織に安住し、組織倒れになってしまうこともある。
 そこで,組織形成の理念、目標を「牧師中心の教会活動から、キリストの体である教会の肢体を形成する信徒が、積極的に活動の肢体となる」ことと定めた。 教会総会::役員会(牧師・伝道師・役員六名)をもって構成し、具体的な活動下部組織として、伝道・教育・財務の部門を置いた。この部門が相互に競合し、生きた福音伝道の働きを担うためであった。さらに青年会・婦人会・壮年会(今の白羊会)・子供伝道の部門として、教会学校が整備され、それぞれの自主的活動が活発になされる事を願った。

 初雁教会はわたしたちが赴任するまで家族持ちの定住教師はいなかった。常に単身の神学生や、淀橋教会から小原先生を中心に、小原家の慧子先生や、順子先生、時には小原夫人の鈴子先生が集会をリードしていた。 わたしが東京天門教会から赴任したときには、現在、京都復興教会において奉仕している清水潔牧師が単身で奉仕していた。 もちろん、主任教師は小原十三司牧師であったから、独立した宗教法人の教会ではあったが、淀橋教会のブランチのような関係にあった。
 その証拠に、淀橋教会の印刷物には、淀橋・志木・初雁の三教会が名をつらねていたが、内容的には淀橋教会の月報に、初雁教会のニュースがチョッピリ端に加えられていると、いった状態であった。

 少し話が横道にそれたが、新会堂の完成は、初雁教会が外に向かって福音を伝える迫力をもたらした。竣工感謝礼拝が終ると同時に、教会は「一致・前進」を表題に高々と掲げた。七月には、横山義孝牧師(西川口)による伝道集会、午後は伝道講習会が持たれた。九月には安陪豊造牧師(東京更生)をお招きし、特別礼拝。十月には藤原政太郎牧師(飯能)と、連続して特別集会が開かれた。燃えている信仰は、これらの連続する諸集会出席も,厭うことなく、毎回新しい出席者が加えられていった。聖霊の火に燃やされるというか、内なる信仰が生き生きとしている時は、その燃える心が互いの信仰を燃え立たせる。まさにキャンプファイヤーの炎のごときものである。
 青年会、教会学校高学年の子供たちは「カルデア会」(ギリシャ語で、心の意味)を誕生させ、毎週土曜日夕に集会を続けた。 初雁教会から、数多くの献身者を送り出してきたのも、この頃からすでに牧師を輩出する土台、気風が育てられていたと言えるであろう。 
 
2008年
      



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